黒豆茶と静かな余韻
夜の《喫茶つむぎ》。
雨は止んでいたが、冷たい風が街を抜けていく。
店内では温かな灯りがやわらかく揺れ、コーヒー豆と黒豆を炒る香ばしい匂いが漂っていた。
扉のベルが鳴り、入ってきたのは、先日ココアとレンコンサラダを食べて帰った女性客だった。
「あ、先日はありがとうございました」
カウンター席に腰を下ろし、にこやかに頭を下げる。
「こんばんは。ようこそ」
つむぎさんが微笑むと、女性は鞄から名刺を差し出した。
――森永 翠。
落ち着いた書体でそう記されていた。
「翠さん……素敵なお名前ですね」
思わず私が口にすると、翠さんは照れくさそうに笑った。
「仕事帰りにふらっと立ち寄っただけだったのに、なんだか落ち着いて……。また来てしまいました」
*
「今日はおすすめがありますよ」
私は黒豆茶を急須に入れ、お湯を注いだ。
立ちのぼる香りは香ばしく、深くやさしい。
「黒豆茶は体の芯を温めて、疲れを和らげるんです。特に腎を養う働きがあって、疲労や冷えを感じている方にぴったりなんですよ」
翠さんは興味深そうに茶杯を受け取り、口に含んだ。
「……ふわっと甘みが広がりますね。コーヒーとは違う、静かな余韻」
その肩の力が少し抜けたように見えた。
「最近、残業続きで……。気が張ってると、つい冷たい飲み物ばかりになっちゃって」
「そういう時こそ、体を温めるものがいいんです」
私は微笑んで言った。
*
そのとき、奥の席でギターを爪弾いていた蓮が、飄々とした声をかけた。
「黒豆茶はね、体だけじゃなく心にも効くんだ。静かに余韻を残してくれる。
疲れた一日を締めくくるには、ちょうどいいだろう?」
翠さんは驚いたように蓮を見た。
「オーナーさん……ですよね?」
蓮は肩をすくめて笑った。
「名前はどうでもいいさ。ただ、いい音といい香りは人を整える。それだけ覚えておけばいい」
ギターの音と黒豆茶の香りが、店内に穏やかに広がる。
翠さんは茶杯を見つめ、ふっと表情を緩めた。
「……こんなふうに力を抜けるの、久しぶりです」
蓮は茶杯に目をやり、低く軽やかに言った。
「じゃあ、もう一口。明日の自分に、静かなご褒美を残してやるといい」
翠さんは微笑み、素直に頷いた。
*
外の風はまだ冷たかったが、《喫茶つむぎ》の中には、黒豆の香りと温かな余韻が静かに満ちていた。
今日の薬膳ミニ知識
・黒豆:腎を補い、老化予防・滋養強壮・むくみ改善に効果的。
・黒豆茶は香ばしく飲みやすい。疲労や冷えを感じるときにおすすめ。
・「腎を養う」という表現は、わかりやすく「生命力や体の底力を支える」とも言える。
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